疑ひながらも、念仏すれば、往生す

「疑ひながらも、念仏すれば、往生すとも言はれけり。これもまた尊し。」

 あの有名な兼好法師『徒然草』に取り上げられている法然上人の御言葉である。

 普段、阿弥陀様やお念仏の教えを尋ねようとするならば、難しい専門書を紐解かねばならないかもしれない。しかし、昔から愛されてきた古典文学に法然上人の御教えの尊さが短い文章ながら取り上げられ、今に伝わっていることを私は大変嬉しく思う。

 最近、私は友人と話して、仏教に興味を持ち始めたことを告げられた。阿弥陀様の教えとは、どんなものなのかを尋ねられた。私のつたない話ではあったが、説明をし、おおむね理解していただけたようである。しかし、本当に阿弥陀様はいるの? 極楽はあるの? の質問に対して、私は自信を持って存在を主張したが、友人は、まだ信じきれないと言った。

 お寺に帰ってから、話に至らなかった点があったのではないかと、あれこれ反省してみた。しかし、逐一説明するには、時間も資料も全然足りないのである。しかし、すべてを出して友人に説明したところで、自分の思っている気持ちと友人の心が共有できるのだろうか、友人はそんな説明や御託を望んでいるのだろうか。

 自分だったらと考えてみた、そうするとお念仏の教えにあって、すぐに信じろというのも無理な話であるような気がした。実は、私も浄土の法門に出会ってすぐに信じられたかというと、そうではないからである。

 しかし、今ではどうであろうか。阿弥陀様にすがってお念仏を称える日々に何の違和感を抱くことのない私。昔と今を比べてみると何が違うのか。それはお念仏の数である。

 はじめは疑いながらも、師に導かれ、学友と一緒に、修行の一貫として等々、そして今では所構わずお念仏を称える日々なのである。この心持を友人と共有することが難しいのは当たり前のことである。そこで、私は友人にこの言葉を送ろう。

「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」

誰でも最初は、ここからであると。

本山布教師 長谷川浩亨
福島教区 浄延寺