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徳川家墓所(徳川家霊廟)
   
 

戦災にて焼失した旧徳川家霊廟は、現在の大殿南北(左右)に建ち並ぶ壮麗なものであったと伝えられています。昭和33年夏、文化財保護委員会が中心となって、発掘された土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬されました。

正面右側に2代秀忠公の宝塔があり、焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでありました。しかし、惜しくも木造のため、戦災で焼失。現在は内室崇源院と共に合祀されています。

静寛院宮の宝塔は当時のもので、実際、家茂公と並んで祀られていました。宝塔は御夫婦同じ物でありましたが、家茂の石塔に対して青銅製であり、明治になってから造られた墓は、将軍の墓に対し、すべてに点において荒削り、不揃いであることからこんなところにも時代の変遷を感じることができるでしょう。特徴として菊の御紋章が掘り出されています。

 


徳川将軍の霊廟
  増上寺は、上野の寛永寺(霊廟非公開)と共に徳川家の菩提寺で、当山に埋葬されているのは、2代秀忠、5代将軍兄弟の綱重、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人であります。  



2代秀忠
  秀忠は家康の第3子として、天正7年(1579)に生まれる。慶長10年(1605)ぶ第2代将軍の位に上った。将軍職にあること18年をかぞえ、寛永9年(1635)、54歳で逝去。台徳院廟に葬られた。  



6代家宣
  家宣は家光の三男綱重の子として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を廃止するなど、「正徳の治」をなしとげたが、将軍職わずか3年にして病に倒れ、正徳2年(1712)、51歳の生涯を閉じた。  



7代家継
  家継は家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣の逝去とともにわずか3歳で将軍職についた。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなられた。  



9代家重
  8代吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。成長するにつれしだいに病気がちになり、将軍になっても政務は重臣にまかせた。調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害ががあったようである。が、復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。  



12代家慶
  家斉の第2子として、寛政5年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。
家慶は「天保の改革」に着手するが、改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むこととなる。家慶はあわただしい世情の中、嘉永6年(1853)、に亡くなった。行年61歳。
 



14代家茂
  家茂は11代家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没した。慶長2年(1866)、享年21歳であった。  



静寛院和宮
  14代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって前述した公武合体策によって降嫁。時に15歳であった。和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)、31歳で逝去。