今月のことばの出典である「一百四十五箇条の問答」は、浄土宗三祖良忠上人の弟子で三条流の了慧道光上人が、法然上人滅後六十年頃の文永十二年(一二七五)に、法然上人の遺文・消息・法語などをもとに編纂した『黒谷上人語燈録』に収録されています。

 この問答は、ある人が法然上人に往生するために心がけておくことで、はっきりしないことを一四五箇条書き出して尋ねたところ、ご返事をいただいたもので、表題はそのうち、先に心を集中させてまっすぐにならなくても、他に何かを行わなくても、念仏だけで浄土に参ることができるでしょうか、との質問に対してのお答えであります。

 現代文にすると、心が散り乱れるのは凡夫の習性であって、自分の力ではどうにもならないことなのです。ただ一心にお念仏を申しますと、心が乱れる罪をなくして往生することができるのです、ということでしょう。

 これは『観無量寿経』の下品下生に説かれている「仏名を称するが故に念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」との経文によるもので、念仏することによってすべての罪が除かれ、往生することができるということが根拠であります。

 私はある刑務所で宗教教誨活動を長いこと行っていますが、その参加者の中にいつも出席し大きい声でお念仏をしてくれる受刑者がおります。どんな罪を犯したのかは知りませんが、長い期間参加していることを考えると、相当重い罪であろうと想像できます。しかし教誨に臨んでいる態度やその目の輝きを見るにつけ、真摯に受け止めていることが肌で感じられ、深い反省懺悔の心で教誨に臨んでお念仏をしていることが伝わってきます。この人に接する時救いとは何かを本当に考えさせられます。先徳は「念念の称名は懺悔なり」とも申しています。

 しっかりお念仏を申し、心の乱れる凡夫の私たちも往生して参りましょう。

教務部長 井澤隆明