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宝物・文化財宝物・文化財

国指定文化財

  • 三解脱門(三門)
  • 紙本着色法然上人伝(絵画)
  • 大蔵経 宋版・元版・高麗版
  • 花園天皇宸翰宸記(しんかんしんき)目録上

都指定文化財

  • 木造阿弥陀如来坐像(本尊)
  • 木造釈迦如来・両脇侍像 (釈迦三尊像)・木造十六羅漢像
  • 経蔵
  • 木造四天王立像
  • 木造広目天・多聞天立像

区指定文化財

  • 涅槃図
  • 法然上人行状絵伝(四十八巻伝)
  • 絹本着色五百羅漢図
  • 徳川家霊廟天井坂
  • 旧方丈門(黒門)
  • 増上寺圓光大師堂(旧景光殿)表門

宝物

  • 仏舎利
  • 阿弥陀如来二十五菩薩来迎図
  • 西誉聖聰上人肖像
  • 聖徳太子立像
  • 髪繍曼荼羅(観経曼荼羅)
  • 紺紙金泥浄土三部経
増上寺宝物展示室
仏舎利

仏舎利

インドのマハボディ寺院から贈られ、長らく増上寺安国殿に仮奉安されていた釈迦三尊(釈尊、ラーフラ尊者、アーナンダ尊者)の御舎利が、このたび正式に奉安されました。 御舎利は1965年、マハボディ寺院管長パナティッサ大僧正が奉持して来日し、翌年仮奉安された際には椎尾弁匡大僧正(当山第82世)御親修により仏舎利開白大法要が厳修されました。その後安国殿内の御厨子に安置されていましたが、より多くの方がお近くでお参りできるよう、このたび正式に大殿地下ラウンジにお祀りされました。
紺紙金泥浄土三部経

紺紙金泥浄土三部経

寛文5年(1665)に書写され、徳川秀忠公の廟所である台徳院殿霊廟に奉納されました。写経の施主は、秀忠と江の娘である千姫、経文の書写は池田光政の娘で本多忠平の室となった奈阿姫によります。奈阿姫の母は千姫の実子で、徳川秀忠の養女となって池田光政に嫁ぎました。
髪繍曼荼羅(観経曼荼羅)

髪繍曼荼羅(観経曼荼羅)

浄土宗の中心になる経典の一つ「観無量寿経」に説かれる阿弥陀仏の極楽浄土の有様を表しています。 本図は、法然上人七百年御忌に発願され、八万四千人から頭髪三本ずつを集め、金欄地に毛髪を納め、入念に刺繍をして、明治37(1904)年1月に完成しました。
聖徳太子立像

聖徳太子立像

寄木造・彩色、框座、厨子入り。かつて当寺が江戸貝塚にあった頃より、太子堂があり奉安されていたと伝えられています。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人像

酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人像

増上寺開山の酉誉聖聰上人の肖像画。聖聰上人は明徳4年(1393)に当寺を開山しました。元禄13年(1700)~宝永元年(1704)に増上寺住持を務めた第三十四世証誉雲臥上人の賛があるので、肖像画の成立もその頃と考えられます。
阿弥陀如来二十五菩薩来迎図

阿弥陀如来二十五菩薩来迎図

法量 111.5cm×47.2cm。 阿弥陀如来が、二十五の菩薩を率いて念仏行者を迎えにきて極楽浄土に引き取る有様を描いたものです。

増上寺所蔵文書

本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。本文が入ります。
増上寺圓光大師堂(旧景光殿)表門

増上寺圓光大師堂(旧景光殿)表門

一間一戸の四脚門(平唐門形式)で、昭和53年(1978)、現在地に移築・改修されました。18世紀前期のものと推測され、江戸時代に隆盛を誇った増上寺の面影を伝える数少ない遺構の一つとして、港区の文化財に指定されています。
旧方丈門(黒門)

旧方丈門(黒門)

御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門です。三代将軍家光公の寄進・建立とされ、慶安年間(1648~1652年)の建立とされています。 明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となった折り、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55(1980)年に当山通用門として日比谷通り沿いに移築しました。
徳川家霊廟天井板

徳川家霊廟天井板

格天井の一間分を二点、龍図と鳳凰図を所蔵しています。画面は胡粉下地・盛上げ彩色で、六代将軍徳川家宣公の旧霊廟天井を飾ったものといわれています。江戸中期、徳川家霊廟の天井画の遺作として貴重な作例です。
絹本着色五百羅漢図

絹本着色五百羅漢図

江戸末期に活躍した狩野派の絵師・狩野一信によって描かれた、全百幅の絹本着彩画です。各画にほぼ5人ずつの羅漢が描かれ、百幅あわせて五百羅漢が現れる様が、執拗ともいえるほどの筆致で精細に表されています。
法然上人行状絵(四十八巻伝)

法然上人行状絵(四十八巻伝)

冷泉為恭の作。法然上人の御誕生から往生までを描いたもので、知恩院本の模写。天保15年(1844)から嘉永6年(1853)までの9年間を要して模写したものとされています。
涅槃図

涅槃図

法量は縦5.3m、横3.5mで、涅槃図の中でもまれに見る大きさです。元和10(1624)年、狩野秀信筆によって制作されたもので、毎年2月15日の涅槃会の際には、大殿に掲げられています。
木造四天王立像 ※写真は増長天

木造四天王立像 ※写真は増長天

1714年、文昭院殿(6代将軍家宣)が亡くなられた際に追善の像として作られたもの。法橋康伝作。当初は江戸城内の紅葉山廟に安置されていましたが、明治維新の際に増上寺に移されました。現在は安国殿内陣の四隅に祀られています。
木造広目天・多聞天立像

木造広目天・多聞天立像

江戸城内紅葉山の四代将軍徳川家綱公(厳有院殿)を祀る廟にあったもので、家綱公一周忌のために造られた四天王像のうちの二体です。作者は京都七条仏師康祐、天和元年(1681)年に制作され、明治維新に際して増上寺に移されました。
木造釈迦如来・両脇侍像 (釈迦三尊像)・木造十六羅漢像

木造釈迦如来・両脇侍像 (釈迦三尊像)・木造十六羅漢像

釈迦三尊像のうち中尊・釈迦如来坐像は、寄木造で蓮台に坐します。脇侍は向かって左が象に乗る普賢(ふげん)菩薩坐像、右が獅子に乗る文殊(もんじゅ)菩薩坐像。三尊とも玉眼で漆箔が施してあり、衣には蒔絵風の模様があります。 十六羅漢像は、釈迦三尊像の両脇壇上に腰かけています。 釈迦三尊像・十六羅漢像ともに京仏師絵所法眼徳悦が彩色を行い、作者は南都を中心に活躍した下御門仏師・宗印一門、製作年代は天正末年から慶長前半あたりと推測されています。
木造阿弥陀如来坐像(本尊)

木造阿弥陀如来坐像(本尊)

大殿の阿弥陀如来坐像は、昭和49(1974)年6月、現在の増上寺大殿が再建された際に本堂に安置され、大殿の本尊として遷座(せんざ)・入佛開眼法要が行われました。寄木造、金箔押、漆箔で阿弥陀定印を結んでいます。 室町時代の作とされ、江戸期には華頂宮門跡・尊超法親王の念持仏であったものを明治42(1909)年、旧大殿が火災に遭った折り、当時の総本山知恩院門跡山下現有猊下から寄贈されました。
経蔵

経蔵

徳川幕府の助成により建立された経蔵は内部中央に八角形の輪蔵を配する、九間半(約17m)四面、土蔵造りの典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されています。中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、家康公が増上寺に寄進したもので、国の重要文化財に指定されています。(現在は後方の収蔵庫に移管)
花園天皇宸翰宸記(しんかんしんき)目録上

花園天皇宸翰宸記(しんかんしんき)目録上

署名はないものの、書風より花園天皇宸翰と認められています。三十四巻の目録が掲げられ、所々に合点が加えられていますが、註記には別筆と認められるものもあります。花園天皇宸記は鎌倉時代の日記の代表として歴史上価値が高く、国の重要文化財に指定されています。
大蔵経 宋版・元版・高麗版

大蔵経 宋版・元版・高麗版

徳川家康公が、慶長14(1609)年に大和円成寺蔵の高麗版大蔵経、翌年伊豆の修禅寺にあった元版大蔵経、慶長18(1613)年に近江国菅山寺にあった宋版大蔵経を、朱印・領地等と交換して増上寺に寄進したもので、重要文化財に指定されています。
紙本着色法然(しほんちゃくしょくほうねん)上人伝(絵画)

紙本着色法然(しほんちゃくしょくほうねん)上人伝(絵画)

法然上人絵巻の中ではもっとも古いものです。寺伝によると、絵は土佐吉光とされ、慶長15年(1610)増上寺中興源誉存応上人が国師号を 賜り参内した時、後陽成天皇から下賜されたものといわれる。内容は法然上人の前半生が記されています。
三解脱門(三門)

三解脱門(三門)

増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門を三解脱門といい、またこれを通称「三門」ともいいます。慶長16年(1611)徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和7年(1621)大風により倒壊するも、元和8年(1622)に再建。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。 建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。この門をくぐると、念仏を称えて阿弥陀様と親しく近しい縁を結び、「むさぼり、いかり、おろかさ」といった煩悩から解脱した安らぎの世界「極楽浄土」への往生を願う空間が広がっています。