境内散歩境内散歩

堂宇の配置

大門から大殿本堂に至る道程は、穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表しています。
三門をくぐり、煩悩を解脱して、大殿へと向かうと、ご本尊である阿弥陀仏が鎮座し、西方極楽浄土の如き、西に位置している点が特徴です。
そのため、増上寺の大殿の荘厳は、極楽の世界を視覚的に表現した造りになっています。

地図で気になる建物を選択すると、説明が表示されます。 マップ 慈雲閣 黒門 三解脱門(三門) 熊野(ゆや)神社 TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~ 鐘楼堂 経蔵 西向聖観世音菩薩 宝物展示室 増上寺会館 光摂殿 安国殿 大殿 徳川将軍家墓所 貞恭庵 大納骨堂 圓光大師堂 明徳幼稚園 水盤舎 仏舎利

大殿までの道のり

  • 大殿に登る階段...25菩薩をあらわし、25の階段となっています。
  • 参道から大殿前に至る階段...18段。阿弥陀仏の本願、第18願。
  • 三門から大殿...距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。
  • 大門から三門...約108間。三門をくぐり108の煩悩から解脱します。
仏舎利

仏舎利

インドのマハボディ寺院から贈られ、長らく増上寺安国殿に仮奉安されていた釈迦三尊(釈尊、ラーフラ尊者、アーナンダ尊者)の御舎利が、このたび正式に奉安されました。
御舎利は1965年、マハボディ寺院管長パナティッサ大僧正が奉持して来日し、翌年仮奉安された際には椎尾弁匡大僧正(当山第82世)御親修により仏舎利開白大法要が厳修されました。その後安国殿内の御厨子に安置されていましたが、より多くの方がお近くでお参りできるよう、このたび正式に大殿地下ラウンジにお祀りされました。
明徳幼稚園

明徳幼稚園

仏教精神を基にした全人的教育を目指し、大本山 増上寺が大正14年に創設したのが明徳幼稚園です。
芝公園の緑の中の理想的な環境の中で、こどもたちがのびのびと育っています。
圓光大師堂(えんこうだいしどう)

圓光大師堂(えんこうだいしどう)

元祖法然上人八百年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と増上寺第八十七世法主 成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、平成18(2006)年11月25日、知恩院より法然上人御廟の御浄砂を拝領しました。御浄砂を成田台下は「御身柄」と命名、この法縁を承け奉安する御堂の建立を発願し「圓光大師堂」として平成21(2009)年9月に竣工しました。 御身柄は内陣奥の特別な厨子に経筒型の五輪塔に納められ奉安されています。建築様式は木造平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の伝統建築であり、身体と心を養う念仏道場として開放しています。
増上寺会館(寺務所)

増上寺会館(寺務所)

昭和36(1961)年に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11(1999)年に建立されました。 東棟・中棟・西棟の3棟からなる会館で、寺務所機能のほか、大食堂や和洋2種の各個室は参拝や法事、研修や修養会で来られる多くの方々に利用されています。
西向聖観世音菩薩(にしむきせいかんぜおんぼさつ)

西向聖観世音菩薩(にしむきせいかんぜおんぼさつ)

鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて安置した石像の観音さまです。子育て・安産に霊験あらたかと伝えれています。昭和50(1975)年浄土宗開宗八百年記念の境内整備事業として、現在の安国殿前に尊像を遷座、同55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われています。
慈雲閣(じうんかく)(開山堂)

慈雲閣(じうんかく)(開山堂)

この御堂は、平成元年(1989)増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山 堂の再建を企画、建築されました。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師・聖冏(しょうげい)上人像と当山中興の聰観智国師像が安置されています。
現在は葬儀や年中行事など、多目的に利用できる設備を備えています。
増上寺宝物展示室

増上寺宝物展示室

※大殿耐震工事に伴い、令和5年4月10日~同年12月下旬まで休館いたします。
増上寺宝物展示室は、徳川家康公の没後400年を記念して開館いたしました。 英国ロイヤル・コレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」の他、増上寺所蔵の宝物を展示しています。

大納骨堂(舎利殿)

大納骨堂(舎利殿)

昭和8(1933)年に建立され、ご本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像です。戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55(1980)年に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。 当山に有縁無縁のご本骨、ご分骨が収められ、永久に亘りお祀り致します。広く皆様のご納骨堂として解放し、ご縁を結ばせていただいています。
熊野(ゆや)神社

熊野(ゆや)神社

元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したものです。 『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、当山では「ユヤ」権現として親しまれています。
水盤舎

水盤舎

この水盤舎は、もと清揚院殿(家光公三男・綱重)の御霊屋にあったものです。徳川家霊廟建造物として現存する数少ない遺構のひとつです。昭和53年3月、現在地に移築されました。
め組供養碑

め組供養碑

享保元年(1716年)建立。増上寺門前の町火消しで有名な「め組」の殉難者・物故者の供養のために建てられました。 かたわらに纏(まとい)を刻した標石と、組員名を刻した玉垣風の石柱があります。 ※増上寺山内は、寺社奉行・大名火消しでした。
千躰子育地蔵尊

千躰子育地蔵尊

子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50(1975)年より順次奉安されています。 毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されます。
グラント松(ヒマラヤ杉)

グラント松(ヒマラヤ杉)

明治12(1879)年、アメリカ合衆国第十八代大統領グラント将軍が訪日の際、参拝記念に植樹されたものです。
貞恭庵(ていきょうあん)

貞恭庵(ていきょうあん)

十四代将軍徳川家茂公御正室、皇女和宮さまゆかりの茶室です。「貞恭」とは和宮さまの法号から名付けられています。 四畳半二間の茶室からなる建物で、昭和55(1980)年に移築・改修し、一般にも利用されるようになりました。
黒門

黒門

慶安年間(1648~1652年)、三代将軍家光公の寄進・建立とされています。 御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55(1980)年に当山通用門として日比谷通り沿いに移築しました。
大門

大門

当山の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門です。 現在のものは国道の通行整備のため、昭和12(1937)年に原型より大きく、コンクリート製に作り直されました。 旧大門は慶長3年(1598)年に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものでありましたが、大正12(1923)年の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築され、昭和20(1945)年の空襲により焼失しています。
鐘楼堂(しょうろうどう)

鐘楼堂(しょうろうどう)

寛永10年(1633)年の建立ですが、現在の鐘楼堂ほ戦後に再建されたものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元(1673)年にあまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。 朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれました。
TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~

TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~

TERA CAFE SHIEN ~ZOJOJI~
営業時間:10:00~17:00
お問い合わせ先:090-1504-8002
経蔵

経蔵

徳川幕府の助成により建立されました。内部中央に八角形の輪蔵を配する、九間半(約17m)四面、土蔵造の典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されています。 家康公が増上寺に寄進した宋版、元版、高麗版の各大蔵経が収蔵され、これは国の重要文化財に指定されています。(現在は後方の収蔵庫に移管)
徳川将軍家墓所

徳川将軍家墓所

増上寺は東京上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺で、当山に埋葬されているのは、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の6人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂公夫人)ら5人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び、三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)ともよばれ、増上寺大殿の南北(左右)に立ち並んでいました。 墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、その当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも戦前国宝に指定されていましたが、昭和20(1945)年3月10日に北廟被災、5月25日に南廟被災と二度にわたる空襲直撃でほとんどが焼失し、わずかに残った建物もその指定を解除されました。 焼失した御霊屋郡はしばらくのあいだ荒廃にまかされていましたが、昭和33(1958)年から文化財保護委員会が中心となり、詳細なる学術調査が行なわれ、のち土葬であった御遺体は桐ヶ谷にて荼毘に付され、南北に配していた墓所は一か所にまとめられ現在地に改葬されました。 調査によれば細部では各将軍若干の違いがあるものの、埋葬は、まず地中かなり深い部分に頑丈な石室を設け御遺体を安置し、二枚の巨石をふたにして、その上に基檀と宝塔は安置されていたといわれています。 墓所にある「鋳抜門」は旧国宝で、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものです。左右の扉に5個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています(青銅製)。規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても、日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
光摂殿大広間天井絵

光摂殿大広間天井絵

光摂殿(こうしょうでん)の三階にある、108畳敷の大広間の格天井には、小倉遊亀画伯、上村松篁画伯をはじめとする、現代を代表する日本画家120名の諸先生が描かれた天井絵が嵌め込まれ、百華となって花開いています。 これほど多くの画家による天井絵は大変貴重であり、豪華極まりないものであります。
光摂殿(こうしょうでん)

光摂殿(こうしょうでん)

平成12(2000)年、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成しました。一階に講堂、三階に大広間を備えています。 大広間、各天井の天井絵は、21世紀への美術遺産として伝えつがれ、集う人に計り知れない功徳となるでしょう。
安国殿

安国殿

戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「安国殿」としました。老朽化のため、平成23(2011)年法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立されました。 本堂中央に本尊である、恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」(御開帳・黒本尊祈願会、正月・5月・9月の15日)は、家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。 また、御前立の阿弥陀如来立像、脇陣には家康公肖像画、徳川家御歴代並びに御一門の尊霊の御位牌、皇女和宮さまの等身大の御像等が祀られており、安国殿は当山の祈願所として親しまれています。
三解脱門(三門)

三解脱門(三門)

増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門を三解脱門といい、またこれを通称「三門」ともいいます。慶長16年(1611)徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和7年(1621)強風により倒壊するも、元和8年(1622)に再建。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。 建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。この門をくぐると、念仏を称えて阿弥陀様と親しく近しい縁を結び、「むさぼり、いかり、おろかさ」といった煩悩から解脱した安らぎの世界「極楽浄土」への往生を願う空間が広がっています。
大殿(だいでん)

大殿(だいでん)

昭和49(1974年)年、大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室があります。
本堂のご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。