今月は法然上人が大胡太郎実秀の妻に宛てた返信の中から選んでみました。大胡氏は上野国大胡(群馬県前橋市)の住人で、法然上人の消息をよりどころとして生涯を過ごされたという武士です。法然上人の遺文集である『西方指南抄』には渋谷道遍・津戸三郎爲守と並んで大胡氏は、法然上人の古くからの門弟であることが記されています。

 さてその内容は、お念仏は心を静めて仏様の内に宿る常住不変の真理を想うのでもなく、心を静めて、仏様の妙なる姿、形を想うのでもない。ただ一心に専ら阿弥陀様のお名前をお称えする。これをお念仏というのです(『法然上人のご法語』1. 消息編 浄土宗総合研究所発行)。ご法語はさらに続いて、かるがゆえに称名とはなづけて候なり、と示され称名念仏をわかり易くお説き下さっています。

 ところで念仏とは古来、仏を憶念することで、具体的には仏の相好や功徳を心に想い念じることで、観念の念仏または観想の念仏といわれ、仏教一般においてはとても重要な修行法として広く行われてまいりました。日本でも一部称名念仏も行われておりましたが、観想念仏が中心で、まさしく念仏とは仏・菩薩・浄土を想い観ることで観勝称劣の状況でありました。

 ところが法然上人は『一枚起請文』にも示されている通り「観念の念にもあらず、ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して......智者の振る舞いをせずしてただ一向に念仏すべし」と往生行として称名念仏を説かれました。観想の念仏は難行であります。無の境地になろうとすればする程多くの思いが交錯して実現できません。しかしながら称名念仏は誰でも称えることができ、まさしく易行であります。

 仏は観念・称念2つの道を示されてはいるが、万機普益慈悲の精神からして易行である称名念仏こそ本意であると法然上人は主張されました。しっ かりお念仏を申しましょう。

教務部長 井澤隆明