投げ出した日々が
あっても
今また歩み直して
みるならば
この世界を照らす
ことができる
雲の晴れた月のように
ブッダ『ダンマパダ』172偈より
「ほら、あれ、何だっけ」と人に尋ねたところで、「えっ、何だっけ。やだ、思い出せない」と答えが返ってくる。よくある会話であるかもしれません。でも、「あれ」が何だかわかった時、胸のつかえが一気に取れた気がします。
学生時代、仲の良かった友人がいました。卒業後もたまに連絡を取り合っていましたが、いつしか連絡が途絶え、そのうちに「彼が誰とも交わらなくなった」という話が聞こえてきました。何があったのか、遠く離れていて心配することしかできない、もどかしい日々が続きましたが、数年後、その彼が、ひょっこり私のもとを訪ねてきました。忘れもしない、互いに30歳を迎える年の9月のある晩のことでした。大柄なくせに、はにかむような笑顔は学生時代のまま。何がどう胸のつかえが取れたのか、彼の心境まではうかがい知れませんでしたが、その晩を境に私たちはこれまで以上に親交を深めていき、その後の彼は、誰もが瞠目する活躍を重ねていきました。
自分の中で、何か歯車がかみ合わずに空回りして、自分自身を投げ出したくなる。あるいは空回りしていることに気づかず、思い違いだけが残る。私たちには、少なからずそうした日々があるはずです。しかし、ブッダ(お釈迦様)は、そうした日々を送っていたとしても、いつか再出発してやり直す機会があって、雲の晴れた月のように輝き、誰かを、そしてこの世界を照らすことができるようになると諭してくださいました。お念仏の教えと出会った法然上人も「雲の晴れた月」となられたお一人であると思います。
再会を果たした友人とは、20数年ほど付き合いが続いた後、彼は病に倒れて亡くなりましたが、彼との親交を深めた日々は今もなお私のなかで「雲の晴れた月」のように輝いています。
教務部長 袖山榮輝







