『選択集』は建久九年に宗祖が、先の関白九条兼実公の懇請によって、他力本願の深旨を述べられた浄土宗の根本聖典です。
 その最初の部分を今月のことばとしましたが、現代文にすると次のようになります。

 あらゆる衆生(人々)には、みな仏となりうる本性、可能性(仏性)があります。はるか昔からずっと多くの仏たちに出会ってきたに違いありません。それなのになぜ、今に至るまでなお、自ら迷いの境涯(生死)を巡って(輪廻)、あたかも炎に包まれている家のように(火宅)、煩悩が燃えさかる世界を出ることができないのでしょうか。

 『無量寿経』によると、はるか昔錠光仏より数えて五十四番目の世自在仏の時に法蔵菩薩が世に出られ、四十八の誓願を発し無量の行を修し、ついに大願を成就して阿弥陀仏となられたと誌されています。つまり永遠の時の流れの中多くの仏が世に出られ、それぞれの仏が多くの人々を教化されておられます。さらに仏は「一切衆生悉有仏性」といってすべての人々に仏になりうる本性、可能性があるとされるのにいまだ救いにあずからず、今も生死に輪廻して苦しんでいるのはなぜかと自ら問をおこし、自ら答える形で示されます。

 それによると罪悪生死の凡夫である私たちは、はるか過去世から煩悩のため多くの仏が説かれた教えを受けとめることができず、離反し続けた結果、今でも苦しんでいる存在だとされています。つまり過去世における仏への不信が現実の苦しみの根本原因であり、罪悪の根源とされるのです。そしてこのような私たちを救う道は聖道門ではなく浄土門しかないと宣言されたのが『選択集』の冒頭の部分であり、本書では続いて『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の第十八願の主旨を示し、罪悪生死の私たちは念仏でしか救われないことを述べているのです。

 しっかりお念仏を申してゆきたいものです。

教務部長 井澤隆明