今月のことばは建久九年法然上人六十六歳の時に、浄土宗の要義を示された『選択本願念仏集』(以下『選択集』とする)より選んでみました。『選択集』の体裁は念仏に関するあらゆる経や論書の引用文を示し、これに法然上人の私釈を加える形式を取り、慎重に念仏教義の体系化をなされている点に意味深いものを感じます。
さて、阿弥陀仏はなぜ念仏の一行を選び取って本願とされたのですかという問いに、法然上人は阿弥陀仏の心は推し量ることは難しく理解できませんが、私なりに思いますにと私釈段が説かれます。
念仏は勝れており、諸行は劣っています。その理由は名号(念仏)には阿弥陀仏のあらゆる功徳が帰一しているからです。
『選択集』では今月のことばに続いて、阿弥陀仏が覚りを得て体得されたあらゆる内面(内証)の功徳、さらには自らその覚りの境地に安住することなく、このすばらしい境地を多くの人に伝えようとはたらく外面(外用)の功徳、つまり仏の智慧と慈悲が名号の中にすべて摂っていると述べています。
名号とは六文字しかありませんが、実は阿弥陀仏そのものであり、この言葉はお念仏の独立性・絶対性を的確に示したものです。
私はかつてこの言葉を実感することがありました。五歳になる子供さんの交通事故死に際し、枕経に出向いた時のことでした。小さな布団に眠るように横たわっている子供さん、涙を流し嗚咽しているお母さんや家族の人々、事故の様子を聞きいざ枕経を始めようとすると、なんと悲しく辛くどうしても声にならないのです。しばらく座っていたがお経を唱えることができず、かすかに数遍のお念仏を称えて帰りました。やがて四十九日の法要の時、落ち着きを取り戻したお母さんが、枕経の時一緒に悲しんでいただき辛くてお経を唱えられないとお念仏を称えていただいたことがとても救いになりましたと告げられました。とうとうとお経を唱えなくても南無阿弥陀仏と万感の思いを込めて称える念仏の中に阿弥陀様の慈悲の心が宿っているのです。
万徳所帰のお念仏、しっかり称えてまいりましょう。
教務部長 井澤隆明