阿弥陀様の慈悲のはたらきは具体的には光明をもって念仏する者だけを摂め取ってくれると『観無量寿経』に説かれています。

 法然上人は『選択本願念仏集』第7章「弥陀の光明全行を照さず、ただ念仏の行者を摂取したまうの文」にて、どうして阿弥陀様の光明は別け隔てなく照らすのに、なぜただ念仏の行者だけを救い取るかについて二つの理由を述べています。一つには親縁等の三義、二つには念仏は阿弥陀様の本願であるからで、余の行は本願でないからと示されています。本願は多くの修行の一つではなく、阿弥陀様が選ばれたただ一つの行なのです。次にこの三義について法然上人は、中国唐の善導大師の著した『観無量寿経』の注釈書である『観無量寿経疏』の中に説かれる三縁(親縁・近縁・増上縁)を引用し、この三義によってお念仏を称える行者を阿弥陀様は救い取るのであると述べられています。親縁はお念仏を称える者は阿弥陀様とまるで親子のような親しいご縁をいただく、また近縁はいつも阿弥陀様がすぐ近くにおられるご縁を、そして今月のことばに致しました。増上縁については次のように示されています。

 人々が念仏を称えますと、これまで長い間重ねてきた罪が除かれ、命終わる時阿弥陀様は観音勢至諸菩薩と共にお迎えに現われ極楽浄土に導いてくれるのです。それはこれまでのよこしまな悪業の束縛さえも妨げとなりません。

 私たちの人生を静かに振り返る時、人知れず犯してきた罪、無意識に重ねた罪、心に傷が残る罪など様々な罪の重荷を背負ってはおりませんでしょうか。今こそお念仏を称えすべての罪を懺悔滅罪し、新たな心になって阿弥陀様のお迎えを迎えられればどんなにすばらしいことでしょう。

 臨終は現世と来世の接点であり、とても大切な一瞬であります。この臨終に散り乱れる心ではなく、安らかな心で往生できるのは阿弥陀様のご来迎があるからなのです。しかしこの臨終はいつ来るかは知り得ません。だからこそ常日頃のお念仏をしっかり申していきたいものです。

教務部長 井澤隆明