今月は弟子の禅勝房が念仏修行などについて質問をされたことに、法然上人がお答えになった『十二問答』(『和語灯録』所収)より選びました。  内容は念仏には心で思うことと、口で称える二つの方法があるが、阿弥陀様の本願は口で称える称名であるから、声に出して称えるべきですとなります。このことは少しややこしいことですが浄土宗義の根本でもあります。

 『無量寿経』に説かれる念仏往生の本願には、阿弥陀仏の国土へ生まれたいと一遍乃至十遍(乃至十念)欲すれば必ず往生できると述べられていますが、この「念」をどのように受け止めるべきかという問題があります。

 本来念とは対象を記憶して忘れないはたらきであり、古来浄土教の高僧は念を心で阿弥陀仏を思い続ける観念であると考えました。ところが中国唐の善導大師は、この部分を『観念法門』や『往生礼讃』という著作の中で、「わが名字を称えること下十声に至るまで」、「わが名号を称すること下十声に至るまで、衆生称念すれば必ず往生を得」と表現され、念を声を出して称える称と読み換える新しい解釈を致しました。

 しかしこれは善導大師が勝手に解釈を変更したのではなく、『観無量寿経』の中で念仏を二度南無阿弥陀仏と称えしむと説かれているのです。一つには下品上生に「合掌叉手して南無阿弥陀仏と称えしむ」、また下品下生に「声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称えしむ」と述べられていることを根拠としているのです。こうして『無量寿経』の十八願の「乃至十念」を南無阿弥陀仏と口で称える称念であるとされました。

 これにより困難な精神集中を伴う観念から、誰もが実践できる称念へと大転換され、法然上人もこの善導大師の説をそのまま受け継ぎ、すべての人が往生できるのは声に出して称える念仏であり、これこそが阿弥陀様の本願であるとされました。

 しっかり声を出してお念仏を申しましょう。

教務部長 井澤隆明