(歌の大意)
 朝露のように儚いこの私の今生の命は、老少不定、いつどこで息絶えることになるかは分かりませんが、あなたのみ心と私の心は、必ずや阿弥陀様のお浄土の蓮の花の台で再開いたしましょう。

(解説)
 承安5年(1175年)春、43歳の法然上人は、本願念仏の内に浄土往生の確信を見出され、浄土宗を立教開宗されました。念仏の布教を決意し、30年間に渡って過ごされた比叡山を後にした法然上人が、最初に草庵を結んだのが西山広谷の地です。その後、建久9年(1198年)に法然上人の弟子、熊谷蓮生房がこの地に隠遁し、上人を開山として念仏三昧院を建立しました。また上人の滅後、嘉禄3年(1227年)、念仏の興隆を妬んだ延暦寺の衆徒が、東山大谷の法然上人の墓所を破却して、その遺骸を鴨川に流そうと企てた際、事前に察知した門弟達は法然上人の遺骸を嵯峨二尊院、太秦西光寺に移しました。翌安貞2年、上人の棺から光明が放たれ、粟生野を照らすという奇瑞が現れたので、法然上人の遺骸をこの地で荼毘に付し、寺の裏山に遺骨を納め廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなみ、以後、念仏三昧院を光明寺と称し、現在は西山浄土宗総本山となっています。境内には法然上人に石棺が残り、御影堂には法然上人が母秦氏から賜った大切な手紙を水にひたし、自ら張り付けたと伝えられる張子の御影が安置されています。

 この歌は、法然上人の伝記の集大成といわれる『四十八巻伝』によれば、建永の法難に際し、承元元年(1207年)、75歳の法然上人が科された四国流罪の地を土佐から讃岐に軽減するなど、心を尽くされた前関白九条兼実公が、法然上人との別離にあたって「振り捨てて行くは別れのはしなれど ふみ渡すべきことをしぞ思う」(私を振り捨てて長い旅路に立たれる事は、ともすると今生の別れのはじめになるかも知れません。しかし、何とかして文だけは渡したいと願うと共に、必ずやこの地にお戻りになって、再びこの橋を踏み渡っていただくようにとこいねがっております)」と詠まれた和歌への返歌として紹介されています。

 浄土往生を遂げた者が、そこで菩薩等の聖衆と会うこと、広くは往生人同士が再会することを「倶会一処」と言います。人は誰しも、かけがえのない大切な方との今生の別れを経験し、それはこの上なく辛く悲しいことです。そうした私達の切なる思いを汲み取られた法然上人は「これまでの輪廻転生の中で、父母・師長・妻子・眷属・朋友・善知識となってきた方々に相い見えたいと願う者は極楽に往生すべきです」(『阿弥陀経釈』)と先立たれた大切な方々との再会を果たすには極楽浄土をおいて他にないことを訴えておられます。法然上人も、母の手紙を御影に張り付けながら、お浄土での母との再会を念願しておられたことでしょう。倶会一処の叶う、尊く有難い阿弥陀様のお浄土を目指して、私達も共々にお念仏を称えて参りましょう。合掌

大正大学 教授 林田康順
増上寺吉水講機関誌『吉水講だより』掲載「法然上人のおうた」(16)より