京都大原の里は、まもなく紅葉の季節を迎え、多くの人が訪れます。この大原の中心である三千院のすぐ隣に勝林院というお寺があり、大原問答が行われた所として有名です。

 この大原問答とは文治2年(1186年)法然上人が後に天台座主になられた顕真の求めに応じて、南都北嶺の碩学を集め浄土教について論議をされたことをいいます。ちょうど季節は秋であったのでしょう。その時法然上人は次のような和歌をお詠みになられました。

『阿弥陀様に染むる心に色に出でば秋の梢のたぐいならまし』

 この和歌が法然上人25霊場の第21番、勝林院の御詠歌となっており、別に『秋の御詠歌』としても今も多くの人にお唱えされています。それではこのお歌の意味からご説明したいと思います。

 「色に出でば」ということは、その人の身(しん)・口(く)・意(い)の三業の全体の上に表れてくるという意味です。南無阿弥陀仏という名号をずっとお称えしていると、そのお念仏に染まったところの心がもし外に出るならば、それはちょうど秋になって木々の梢が赤に黄にきれいに彩られるように、その人の人柄が外に表れてきます。お念仏によって浄化された人柄が表れてくるというのは、秋になって今まで緑だった木々の葉が自然に黄色になったりあるいは赤に染まったりして人々をひきつけるのと同じように、お念仏によって立派な人格を形成するであろうと、そういうお気持ちを紅葉にかけてお詠みになったところのお歌です。

 人間の顔とは、形や位置関係は多少違うかもしれませんが、ついているものはみんな同じですね。顔は自分が望んで作った形じゃありませんから多少は親に責任があるんですが、しかしね、四十過ぎの人の顔は、これは自分の人柄によって自分で作った顔だといいますね。人間の人柄は年とともに変化してきます。オギャーと生まれた頃の顔の形そのものが入れ代わるわけではありませんが、なんとなく人柄というものが体の中にしみこんできて、あるいは中のものが外に表れて人柄というものを形成して顔に表れてきます。そしてお念仏を繰り返していると人柄が良い方向に変化します。今まで嫌われていたものが、お念仏によって好かれるような状態になります。

 例えば毛虫を思い浮かべてみてください。「大好き」という人はいらっしゃらないだろうと思います。しかし、毛虫は羽化をしまして蝶に変わります。黒くなる蝶も白くなる蝶もありますが、蝶という状態に変化をすると、毛虫の頃には嫌われていたものが、人々に慕われ追いかけられるようになります。そういうふうに人間というものも、お念仏によって変化するのです。また昔のお寺では暖房に炭を使っていました。大人数お集りの時には火鉢を並べ、炭を置くわけですが、炭を扱う人は手や服が汚れるので皆、その役目を嫌がります。しかし、炭のままでは皆から嫌われていたものが、一度火に変わると温かさに大勢の人が集まり、多くの人に喜ばれる存在になります。

 私どもは生まれながらに、阿弥陀様からいただいた仏性(ぶっしょう)という種をすべての人が持っているのです。持っているのだけれども、これを働くようにしないといけない。火がつかなくちゃいけない。この仏性が働き出す作用を阿弥陀様からいただくと、阿弥陀様のお導きのお力のよって私どもの眠っている仏性が目を覚まして、私どもの人格全体を変化させます。

 阿弥陀様のお力の中には不思議な力が存在しているのです。ちょうど太陽がすべての人の体を温め、心を温める力を持っているのと同じように、太陽光線を受けると柿の渋みが甘く変化していくように、私たちの人間性も阿弥陀様のお光明のお力をいただきますと、体のどこかにいただいている仏性というものに火がついて、良い方向に変わっていきます。そういう状態をお詠みになったのがこの「阿弥陀仏に染むる心の色に出でば 秋の梢のたぐいならまし」という勝林院の御詠歌(秋の御詠歌)であります。

大本山増上寺88世法主 八木季生大僧正台下 著『こころの歌』より
(文責 教務部長 井澤隆明)